Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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戸田弘子論文「治療の場の<真(マコト)>について」査読論文
2008.9/10

[要約]
戸田弘子論文「治療の場の<真(マコト)>について」においては、「治療の場の<真(マコト)>」と筆者がいうレベルとの関係性の解釈をはじめとして、整合的に解釈困難な複数の概念的フレームワークの分散的な記述が見られる。しかし、戸田論文には、こうした論の記述様式が十分正当化されるだけの方法論が用意されてはいない。すなわち、筆者は、自らの記述戦略を正当化することには成功していないと思われる。私見であるが、「偶然の椿事=出来事」の<出来事性>のさらなる考究が不可避であったと思われる。以上から、本査読論文においては、上記整合性へのいくつかの問いかけを提示することに留める。

キーワード:整合性 解釈の枠組み 偶然の椿事=出来事 <出来事性>

はじめに
本論文の著者は、事例解釈上の整合性への拘りを少なくてもいったん解除した上で、事例そのものの記述を遂行しているように見えるが、実際にそこで遂行されている記述は、「《文献》」にあるユング(心理学辞典)やサリヴァンなどにインスパイアされたかなり定型的な枠組みをベースにした「解釈」であった。そこで持ち込まれている解釈の枠組みと、筆者がいう「治療の場の<真(マコト)>」のレベルとは、乖離状態にあるのではないかと思われる。
1.[要約]への問いかけ
 筆者は[要約]において、「「転移・逆転移」の幻想の絡み合い」のレベルを、「ではなく」という強い表現によって、「鏡像の輻輳」としての「心の外でも内でもない境界域での現実(<真(マコト)>)」と疎隔化している(また後に言及する結論部の「論考」においても「転移の幻としてではなく」という同様の表現が見られる)。では、これら両者はどのような疎隔的位置関係に置かれているのだろうか? 例えば「幻想」のレベルは、「転移・逆転移」でも「鏡像の輻輳」でもないある第三のレベルを占めることは無いのか? こうした問いに、本論がどのように対処し得ているのかいないのかが問題となる。
2.「問題」への問いかけ
 「職員間の相互受容を基盤とする連携」を論の端緒におけるある種の前提として(しかもそれを「治療環境が的確に布置され」という形で)位置づけ、その位置するレベルを「境界領域」との関係において必ずしも明らかとはいえない場所に設定し、しかも「「事実関係」の確認が難しい場合にも、治療は進展するのではなかろうか」といった機能をそれに付与してしまうことは、いわば論点先取的な解釈行為にならないであろうか? 実際、この段階ですでに、「良好な結果=結論」が出されているといえるのではないか(後の「事例」における最終的な結果報告の記述とその位置づけからもそのことは推測される)。
3.「事例」への問いかけ
 実は「事例」のみから問いかけられる問いはさほど豊かなものにはなり得ない。すでに、「問題」についての問いにおいて、この「事例」の結末ともいうべき記述に言及している(せざるを得なかった)。すなわち、この「事例」とそれに先立つ記述、さらにそれに引き続く「考察」および「論考」との接続関係は整合的に読解可能なものであるのか? 言い換えれば、問題・事例・考察・論考を、<真(マコト)>[の解釈]を媒介とした最小限の整合性において読解し得るのか、という問いである。
4.「考察」への問いかけ
 記述の上では、「心的現実」を筆者は保持している。また、「幻想」と「筆者独自の回路を通した(もの)語り」のレベルも保持している。しかし、これらのレベルと「現実感」、「転移・逆転移」、「(ユング的・原型的)イメージ」、「鏡像」、さまざまな部分対象、「(定型的)女性像」をベースとする解釈枠組み、複数の「書物(の記述)」、「他職員との協働の治療枠」などとの関係性、そしてとりわけそれらと「治療の場の<真(マコト)>」と筆者がいうレベルとの関係性を本論文において整合的に読み解くことは極めて困難である。では、これら諸概念(の枠組み)の混在を正当化する「別の記述領域」または「記述装置」が本論において設定されているであろうか。
5.「論考」への問いかけ
 「論考」は、本来は「存在しない」はずのメタレベルとして設定された記述領域または記述装置ではないのか? 「現実の治療過程」においてというよりむしろ、本論文という記述の総体を総合する機能を持つ領域として、「阿吽の呼吸でなされる職員間の協働をはじめ様々な条件」を論の終わりに(そして先に見たように実は始まりにも)設定しなければならなかったのではないか? また、(これもある種の発達段階の論理を感じさせる)「(定時制高校という)次の世界」、あるいはこれまでも語られてきた「外の世界」は、「心の外でも内でもない境界域での現実(<真(マコト)>)」という表現における「内」と「外」とどのような同一性と差異を持っているのか? さらに、上述の「総合機能を持つ領域」は、依然として「「ふたり妄想」にも似た世界」と乖離しているのか、あるいはむしろこの「「ふたり妄想」にも似た世界」は、そもそもの最初からその領域へと取り込まれてしまっている(従って良好な結果=結論[=結末]も先取されている)のか、決定困難なのではないか? だが、いずれにしても、取り込みと乖離は同一の事態の両面に過ぎないともいえるのだが。
おわりに
 筆者のいう「心の外でも内でもない境界域での現実(<真(マコト)>)」というレベル、あるいは境界領域における「正味の現実」が、「当の場に純正に偽りない出来事」であるのなら、それは、その直後に単に「語り narrative なのである」と記述可能なものではないのではないか? 少なくても、このレベルと「転移」(と「逆転移」)のレベル、および「幻想」のレベルとの関係性の分析が不可避であるだろう。しかし、それはここには欠如している。「転移」(と「逆転移」)および「幻想」は、本論では「<真(マコト)>」との関係において肯定・否定両方向に揺れ動いているが、依然として通俗的なイメージの枠から自由になってはいないのではないか?
 「偶然の椿事=出来事 happening 」の<出来事性>は、あらゆる解釈枠組みの中でつねにすでに報われぬ屍骸と化しているのだろう。しかし、それは――「<真(マコト)>の身体感覚」も「外の「常識」(への調律)」も消滅したいわば絶対零度において――その活動を止めることは無い(できない)。その、ジジェク[Slavoj Zizek]風にいえば、「ゾンビのようにすでに死んでいるのに死ぬことのできない undead 」出来事の<出来事性 Happening-ness>は、<現実(界)The Real>の予期せぬ侵入に記述が持ち堪えるという、ありそうも無い可能性に賭けられているのではないか?
 

Reviewer’s comments on TODA Masako’s article entitled “<REALITY> IN PSYCHOTHERAPY―As A Case of Therapist ”

On TODA Masako’s article entitled “<REALITY> IN PSYCHOTHERAPY―As A Case of Therapist ”

Abstract:
In TODA Masako’s article entitled “<REALITY> IN PSYCHOTHERAPY―As A Case of Therapist ”, the author describes many dispersed conceptual frameworks which are hard to be interpreted consistently in relationship to the level of <REALITY> IN PSYCHOTHERAPY [MAKOTO]. However, I think there is not any methodology by means of which such descriptive style is justified sufficiently in this article. That is, the author does not succeed in justifying her own descriptive strategy. In my view, it would be necessary for the author to investigate more rigorously <Happening-ness> of Happening.

Key words: Consistency, Framework of interpretation, Happening, Happening-ness

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